1.懐かしの西川津校舎

第1回目として昭和50年代の初め頃と思われる西川津校舎の写真集を掲載します
新制高校としての母校は戦後の学制改革により、昭和23年に松江中学を前身とする島根県立松江第一高校と、県立松江高女及び松操高女を前身とする島根県立松江第二高校として発足しました。
当初、校舎は松江第一高校が北校舎(赤山)、松江第二高校が南校舎(西川津)に分かれていました。
昭和24年に両校が統合され島根県立松江高校となりましたが、校舎の統合が懸案となり、昭和25年10月に北校舎(赤山)が南校舎すなわち西川津校舎に移転することにより統合が実現しました。ここに赤山校舎は明治30年以来53年の歴史に終止符を打ちましたが、昭和53年3月再び西川津校舎から赤山校舎へ復帰しました。
従って、西川津校舎で学んだ卒業生は松江第二高校で学んだ方達と、昭和26年卒の2期(半年間を西川津で過ごす)から昭和55年卒の31期まで(30期は2年間、31期は1年間を西川津校舎で過ごす)ということになります。そして西川津校舎時代は27年半ということになります。
この写真集はおそらく赤山移転の直前に撮影されたものと推測されます。懐かしさに濃淡はあると思いますが、題して「懐かしの西川津校舎」、暫し往時にタイムスリップして楽しんでください。
なお、校舎配置図は「松江北高等学校百年史」、校舎の鳥瞰図は過去の同窓会名簿「双松会」から収録しました。

なお、松江北高が赤山へ移転した後の西川津校舎跡地のその後については、当時の双松会会長である松本幹彦氏が2006年の近畿双松会会報に「ごあいさつ」の中で下記のように記しておられます。

昭和54年、西川津校舎跡地の西半分が「県立プール」、校庭であった東半分には「くにびきメッセ」と道路が建設されることが決まった。当時の松江高校・松江北高同窓会は、県当局に「校舎移転に伴って校地は道路その他に転用されることになるが、この地に若き日を育まれた1万3千余人の卒業生は、あげて故地に限りない愛惜の情を寄せている。校地の一部を松江高校・松江北高校残礎の地として保存してほしい」との陳情書を提出した。曲折はあったが「県立プール」の敷地内「くにびき道路」寄りの一角を借用することができた。その場所へ西川津校舎玄関前の「質実剛健」の碑(注1)を移し、さらにその傍には佐藤春夫の詩の一節「若かりし日のわが夢ぞ そこに狭霧ろう」を彫り込んだ記念碑(注2)を建立し、栄光の歴史を留めることにした。

(注1)昭和41年、創立90周年を記念して長年にわたり旧制松江中学の校長を務められ、母校に「質実剛健」の精神を確立された西村房太郎先生に揮毫をお願いし、川津校舎玄関前に建立した碑。
(注2)表面の佐藤春夫の詩は当時の前川多助校長の揮毫による。
(注3)記念碑の裏面には兼折博元校長の文になる建立趣旨が刻まれている。

現在(平成24年9月)、くにびき道路の西側の県立プールは上乃木へ移転しており、東側はグランドになっています。

 
2009年(平成21年)5月16日撮影

 2009年(平成21年)5月16日撮影