第14回 「文楽」鑑賞会
・日時:令和元年7月21日(日)午後2時〜5時40分
・会場:国立文楽劇場
・演目:仮名手本忠臣蔵
    五段目 
     山崎街道出合いの段
     二つ玉の段
    六段目 身売りの段
     早野勘平腹切の段
    七段目
     祇園一力堂茶屋の段
・参加者 20名





今回は文楽三大名作の一つである「仮名手本忠臣蔵」の五段目〜七段目を鑑賞しました。
因みにあとの2作は「義経千本桜」と「菅原伝授手習鑑」です。
江戸時代は、政道批判はご法度でした。そのため、その時々に起こったいろいろな事件を題材にして、そのまま文楽などの作品にすることは憚られました。そこで、お上からお咎めを受けないように、時代を遡らせ、登場人物も変えて脚色を加えて作品を作りました。
「仮名手本忠臣蔵」は元禄時代に起こった有名な赤穂事件を題材にしています。時代を南北朝時代に設定し、刃傷事件の当事者である吉良上野介は、足利尊氏の重臣、高師直とし、一方の浅野内匠頭は塩谷判官高貞(作品では高定)を当てています。
吉良家は「高」家の代表格であり、赤穂藩は「塩」が特産品であることから、高師直と塩谷判官が当てられたと言われていますが、悪役のイメージが強い高師直と、師直の讒言により無実の罪を負わされ非業の死を遂げた塩谷判官高貞が当てられたのは、実に上手な設定に思われます。
前回書きましたように、年一回の文楽鑑賞を、より実りあるものにするため、筆者は「予習」として、ネットで序段から最後の11段目までの床本を見つけ、全体の筋をざっと読みました。
また、折りよく、6月30日にNHKのEテレで、春に上演された序段から4段目の中の3、4段目の放映がありましたので、これも鑑賞しました。その予習のおかげで、4段目までの展開も頭に入り、8段目以降の義士たちの大願成就と故主君墓前での、足軽身分である寺岡平右衛門が早野勘平の代理としての異例の二番目焼香をするまでの前段階として、今回の各段の場面場面を理解しつつ鑑賞することができました。
さて、いつものことながら、現代では理解しがたい、あの時代の「忠義」という価値観。それと、これは現代も変わらぬ「金」という厄介なもの。このふたつのために、引き起こされる数々の悲劇。生き方の下手な早野勘平の悲惨な最期、おかるの不幸。救いは、どうしても義士に加わりたい足軽身分平岡平右衛門の忠義一徹を認めた大星由良助という人物の寛容さでした。このあたりも庶民の喝采を浴びたところだと思います。
いつもながら、太夫、三味線、人形遣いの息の合った熱演を、舞台にも床にも近い席で堪能しました。予習の成果もあって例年より一層充実した3時間余でした。

特に印象に残ったこととして、「どこまでもドジな早野勘平」について触れてみたいと思います。
早野勘平のモデルは、箕面の住民の方には馴染み深い萱野三平(本名重実)です。箕面には「萱野」という地名もあり、旧居に「萱野三平記念館」もあります。浅野藩開城後、萱野三平は大石内蔵助の義盟に加わりますが、父が仕官している吉良家と繋がりの深い大島家への仕官を、父から強く勧められ、討ち入り前に、忠と孝のはざまに悩んで自刃して果てたという悲劇の主人公です。同じ悲劇でも作品の勘平と実際の三平とではかなり違いますね。また、萱野三平には早野勘平と違って、おかるに相当するような女性の存在も伝わっていないようです。また、三平は「涓泉」という号を持つ俳人としても有名でした。

そもそもが主人塩冶判官高定の刃傷事件という一大事のときに、おかるとデートに出かけていて、謹慎させられた勘平ですが、そういう浅慮や運のなさのせいか、いろいろ「なんでや」と思わせる行動が目に付きます。まず、闇夜の雨の日に火縄銃を持ってイノシシ撃ちに山に入ります。火縄を濡らさない工夫もしないので火は消えてしまいます。山道で、かつての同僚千崎弥五郎に偶然出会い火をもらいます。
そしてイノシシを見つけ(闇夜なのによく見つけたなぁ)仕留めたと思って近寄って見ると、何と撃たれていたのはイノシシではなく人間でした。それは、斧定九郎という悪党でした。勘平は、撃たれて死んだ人間が誰かは知りませんでした。(懐を探ったついでに、髪型など死体の特徴を、少しでもあらためていれば、後の思い違いは起こらず、切腹することにもならなかったのですから、このあたりも、「勘平、しっかりしろよ」と叱咤したいほどです。石川五右衛門みたいな頭とちょんまげ頭位は、闇夜でイノシシを見つけたくらいですから簡単に見分けがついたと思うのですが。)
定九郎は、家路を急ぐおかるの父与市兵衛を襲って殺し、50両を奪って懐に入れていたのでした。その50両は、与市兵衛が婿勘平の義士団復帰のために、娘おかるを身売りした一文字屋から、前金として受け取った金でした。(定九郎の父は塩冶判官の家老でありながら、主家を裏切って高師直に通じている斧九太夫ですが、定九郎はこの父にも見放されて勘当されるほどの悪党です。余談ですが、当会の松本会長が子供の頃、郷里の本庄に巡回してきた村芝居での悪役は、決まって「サダクロ」という人物だったそうです。会長は、それはこの定九郎だったのかと懐かしく思い出したそうです)
倒れている男の懐を探るとずっしりと重い財布があります。義士に加えてもらうには軍資金の提供が必要なので、勘平は、これはありがたく頂戴して、その50両を、義士仲間に渡してしまいます。家に戻ると、戻らぬ与市兵衛を女房が案じており、来合せていた一文字屋の話から、与市兵衛はおかるの身売りの前金50両を、一文字屋が自分の着物と同じ柄の切れで作った財布に入れて渡してやったので、昨夜帰っているはずだと聞かされます。こっそり、懐の財布の柄を確認した勘平は、自分が撃ったのは舅の与市兵衛だったのかと愕然とします。
そこへ猟師3人が与市兵衛の死骸を運んできます。与市兵衛は自分が撃った鉄砲の弾で死んだのだと思い込んでいる勘平は驚く風もありません。このあたり演技力ゼロ。女房の疑惑を一層深めます。勘平が持っている財布(それも血染め)の柄が、一文字屋が与市兵衛に与えたという財布の柄と同じことに気づいていた女房は、勘平が与市兵衛を殺し金を奪ったと確信し、口を極めて散々勘平を罵ります。そこへ千崎弥五郎と原郷右衛門が訪れ、主君大事のときに不始末をした勘平を、義士に加えることはやはりできぬという大星由良助の伝言を伝え、50両も返却されてしまいます。そのうえ、女房から顛末を聞いた両人から厳しく責められます。耐えかねて、ついに勘平は切腹に及びます。そのあと、与市兵衛の死体の傷跡は鉄砲玉によるものでないことがわかり、さらに、二人が来る途中で鉄砲で撃たれた旅人の死体があったことを思い出し、疑いは晴れましたが、時既に遅しです。それでも千崎と原は、勘平が舅の仇を討ったことを褒め、義士の血判状を取り出し、こと切れる寸前の勘平に血判を押させ、義士に加わる望みを叶えてやります。
最初から正直に事の経緯を説明すれば、与市兵衛の女房も千崎、原も了解し、生きて討ち入りに加われる可能性もあったのに。勘平、何とも見ていて歯がゆい存在でした。

さて、ここで相も変わらず、重箱の隅をつつく筆者の悪い癖を、二三披露したいと思います。
題して

「重箱隅右衛門のひねくれ突っ込み」
1.グータッチ?

山崎街道出合いの段で、早野勘平はかつての同僚千崎弥五郎と偶然出会います。久しぶりの再会に、「互いに拳を握り合い(床本)」ます。でも、人形の所作を見ると、早野勘平は左手を、千崎弥五郎は右手をお互いに突き出し、拳を丸めたまま軽く触れ合います。まるでヒットを打った打者が1塁ベースでコーチャーと軽くやる、あのグータッチです。久しぶりに会った不遇の浪人同士、もう少し思い入れのある所作があってもと感じました。歌舞伎ではどうなっているのか興味があります。
2.ハイテク手鏡?
「祇園一力堂茶屋の段」で大星由良助は息子力弥が届けた、塩冶判官高定の内室顔世御前からの密書を読む場面があります。向かいの2階からその様子を見ていた遊女おかるは、誰かからの由良助への恋文かと気になって読み取ろうと思いますが、夜目遠目で読めません。そこで「思ひ付いたる延べ鏡、出して写して読み取る文章」とあります。延べ鏡とは特別な鏡ではなく「懐中に入れておく小さな鏡」です。鏡に映して見ても字が大きく見えるわけでもありませんし、第一文字が左右逆になって読めたものではありません(実験してみました)。おかるは超ハイテク鏡を持っていたのでしょうか。

「余話
1.塩冶判官高貞と出雲

赤穂事件の浅野内匠頭に擬せられた塩冶判官高貞の先祖は、近江源氏の流れをくむ佐々木氏であり、嫡流佐々木秀義の五男佐々木義清が承久の乱の後、出雲・隠岐2国の守護となって出雲に住み着きました。
出雲には古代から、塩夜(やむや)の地名があり、出雲の国風土記には「塩夜社」の名があります(延喜式では「塩冶神社」)。その後「塩夜」は「えんや」(現在「えんな」とも)呼ばれるようになり「塩冶」と書かれるようになりました。佐々木義清の孫頼泰のとき、地名の塩冶を名乗るようになりました。塩冶高貞は高師直の讒言により謀反の疑いを受け、幕府の追討を受けたため、高師直と一戦を交える覚悟で、京都から出雲に戻りますが、途中で妻子の死を告げられ、宍道郷の佐々布山で自害しました。
従って、高貞は出雲と関わりの深い人物であり、近畿双松会としても親しみの持てる人物でもあるのです。

2.高貞と母校の応援歌
皆さんは、高校時代応援歌の練習をしたことを覚えていますか。筆者は川津校舎でしたが、中庭で1期上のM団長から厳しい指導を受けた記憶があります。練習をさぼって楽山に逃避した同期生グループもいたようですが、筆者は真面目に指導を受けました。そのおかげで、当時の応援歌の歌詞をいくつか覚えています。特に「春日の南紅き丘 その丘の上に育ちたる・・・」ではじまる「かすがのみなみ」、「ああ紅陵に正気あり 青春の子が熱血の・・・」で始まる「ああこうりょうに」は懐かしく、歌詞が自然と出てきます。
そして、もう1曲、歌詞について気になっていた曲がありました。「ゆけやゆけ」の題で「行けや行け吾等が選手 勇ましく阿修羅の戦場」、そのあとに続く「高貞が 天馬ものかは 砂塵を蹴立ててぬけよ」のところです。
高貞とは太平記の時代の人物だろうくらいの印象はありましたが一体何者なのか、天馬がどうして出てくるのか、気にかかりつつ現在に至りました。文楽鑑賞会の予習で、高貞は出雲の守護塩冶高貞と知り、ネットで「高貞 天馬」で検索した結果、塩冶高貞が天皇に一日に千里を走るという「天馬」を献上したという故事があることを知りました(国立国会図書館:日本史蹟文庫 吉野の朝廷)。60年経ってやっと歌詞の意味を知った次第です。その天馬には後日物語があるのですがここでは割愛します。
なお、「双松」名簿平成28年版をお持ちの方は、巻末の1002頁〜1003頁に応援歌の歌詞が載っていますので、紹介しておきます。

3.仮名手本忠臣蔵の主な義士の名前と赤穂事件の本名との対比
実に良く考えて名付けていますね。
仮名手本忠臣蔵 赤穂事件
大星由良助   大石内蔵助
大星力弥    大石主税
千崎弥五郎   神崎与五郎
矢間十太郎   間十次郎
竹森喜多八   武林唯七
寺岡平右衛門  寺坂吉右衛門
早野勘平    萱野三平
原郷右衛門   原惣右衛門
斧九太夫    大野九郎兵衛

「雑知識
1.仮名手本忠臣蔵の題名は、四十七士の47がいろはの47文字と合うことから付けられたといわれています。
いろはにほへとのの歌を7文字ごとに切って7文字目(最後だけ5文字目)を縦につなぐと、「とか(咎)なくて死す」となり、題名には、義士たちに同情した立派な政道批判が隠されていたのだという説があります。誰が見つけたのでしょうか。
いろはにほへ

ちりぬるをわ

よたれそつね

らむうゐのお

やまけふこえ

あさきゆめみ

ゑひもせ


2.川柳
赤穂事件と「仮名手本忠臣蔵」を詠んだ川柳は、約3400句あるといわれているそうです。
その中で、今回の五段目に関して面白い句を見つけました。
「五段目で 運のよいのは 猪(しし)ばかり」
与市兵衛は斧定九郎に殺され、斧定九郎は早野勘平の鉄砲(流れ弾)に打たれて絶命、そして早野勘平も誤射から始まる皮肉な展開から自責のあまり自決。結局命を長らえたのは、勘平の鉄砲に狙われて逃げた猪だけだったという皮肉な巡り合わせを詠んでいます。