■講演「船乗り時代のよもやま話」
(事務局・抜粋) 荒銀昌治(中68期)
昭和55(1980)年9月、2万4,000㌧の商船三井のコンテナ船の船長として、イラク向けの貨物を積んで日本を出港しました。兆候はあったのですが、数日後にイラン・イラク戦争が勃発しました。日本船がイラン海軍に連行されたとの連絡もあって航海は大変緊張したものになりました。
イランのコントロール下にある海域をイラク向けコンテナを運ぶのは危ないという判断で急きょアラブ首長国連邦の港に荷物を降ろしたのですが、海上に出たところでイランの武装艦艇が現れ、併走し始めました。
船長として何をなすべきか――。その時、第二次中東戦争(1956年)に遭遇した際のキャプテンの処置を思い出したのです。エジプト・アレキサンドリア港に入った翌日、イスラエルの攻撃で中東戦争が始まりました。
当時私は三等航海士でしたが、船の周囲はエジプトの艦艇でいっぱいでした。それがイスラエルの攻撃機に対して高射砲で応戦するのです。大変な事態でした。そのとき、船長はただちに日の丸をマストに掲げ、甲板に日の丸を描くよう指示したのです。
そのことを思い出した私は、すぐに日の丸を挙げさせました。そして、銃撃に備えて乗組員全員をイラン艦艇と反対側の左舷に集めました。イラン艦艇は不気味な沈黙を守ったまま併走し続けました。次に何をすべきか。もう祈るしかありませんでした。
丁度10月。故郷の出雲は全国の八百万の神さまが集まる「神有月」です。船内にある神棚に向かって本当にお祈りを始めました。
やがて武装艦艇は何事もなかったかのように離れて行きました。もちろん、すぐに神棚に祈り、お礼を言いました。そのおかげがあったのでしょうか、航海は無事に終わることができました。
中東戦争、イラン・イラク戦争と2度戦争に遭遇しましたが、危機に直面したとき、私は躊躇することなく日の丸を掲げました。そのことは航海の安全にとって効果があったと思っています。
インド・パキスタン航路の船に乗り組んでいたときのことです。香港に入港した折、英国旗を揚げなかったとポートオーソリティー当局からひどく叱られました。船長たちがすぐに出頭して事なきを得たのですが、国旗の扱いを間違えるとこんな大きなことになるのかとカルチャーショックを感じました。
中東戦争の前年、スエズ運河通過中に日没で旗を降ろしたのですが、作業員が一人だったこともあってエジプト国旗をいったん甲板に広げてから収納しました。見ていたエジプト人パイロットが同国政府に「国旗が粗末に扱われた」と報告したため、政府は日本の外務省に抗議したのです。
外務省から連絡を受けた運輸省(当時)は船会社の社長を呼び出し、厳重注意となりました。そして日本船主協会を通してすべての船舶に国旗の扱いを慎重に行うよう通達が出されたのです。「エジプト国旗事件」は当時の海運業界で知らない者はいないほど有名な事件でした。
自分の国、相手の国の国旗に敬意を払い、丁重に扱うというのは当たり前のことです。世界の常識なのです。若い日本の人たちがこのマナーをきちっと身につけてほしいと思います。
◆荒銀昌治氏略歴
旧制高等商船学校航海科卒業。商船三井で31年勤めた後、19年間のパイロット(水先案内人)を経て日本パイロット協会会長を4年間務めた。旭日中綬章受章。近畿双松会50周年記念会報(08年)に「ふるさと孝行――ある女流画家との出会い――」を寄稿。安来市広瀬町出身。